万霊節


 ハロウィン(Halloween)もしくはAll hallows Eveについて

 ハロウィンは10月31日に祝われるお祭りで、日本では万霊節と訳されていました。クリスチャンのHallowmas(All Saints, All Saints' Day)(万聖節)というお祭りの前の晩(イブ)のお祭りと位置づけられますが、もともとはケルトの宗教に由来します。

 古代ケルトにはSamhainという祭りがありました("Samhain"は「ソーイン」というような発音です)。Samhainの祭りは「太陽の季節(夏)」の終わりと「暗闇と寒さの季節(冬)」の始まりを告げるものであり、新年を無事に迎えることができるようにする年越しの祭りでした。

 ケルトの宗教では、季節の移行というものに際しての祭りが重要であったと言われます。(いろいろな意味で危うい)季節の移行期を祭祀によって乗り越えることで、播種と収穫が滞りなく行われると考えられていたのです。

 さてこのSamhainの前夜、季節が変わるその狭間の時は、超自然的な力が他のどの日よりも集まってくる日だと信じられていました。その「時」は、人間の世界と超自然の世界との間の垣根が崩れる時として捉えられていたのです。それは死者の魂などあの世の存在がこの世の住人を訪ない、この世の者たちも神々や超自然的存在の領域に入ることができる日で、人々はそこで犠牲獣や穀類などを捧げ、大地の豊穣を司る超自然的な力をなだめていたのです。ただそれはケルトの特定の神格(特別な神さま)に祈るという日ではありませんでした。祈りは、全方位の非人間的(超越的)力、超自然的存在に向けられるものだったのです。

 またSamhainの時は、個人のすすむべき道(未来)の情報を最もよく知ることができる時と思われておりました。それゆえこの時にあらゆる占いが持ち出され、吉凶禍福、結婚や病気や死について人々は知ろうとしたのです。

 イギリス全土がキリスト教化して後のケルトでも、このSamhainは最も人気のある祭りとして残っていました。そしてイギリス国教会はこの異教の慣習にキリスト教的意義を付与しようとします

 ケルト人はSamhainの祭りで霊を追い払うために大かがり火(bonfire)を焚き、そのかがり火の周りを祝い踊っていました。これに対して国教会は「善意は必ず邪悪なものを打ち倒し、世の光であるイエスが、すべての暗闇の恐怖を打ち負かす」という意味付けをし、これをAll Hallowsと呼んだのです。これが万聖節(All Saints' Day)の祭りとなりました。

 そして同時に、Samhainの前夜(イブ)もハロウィン=万霊節として意味づけられます。このようにして中世イギリスのキリスト教会はケルトの祭事を吸収していったのでした。

 ただはじめのうちハロウィンはイギリスの中でもケルトの領域であった地方だけで祝われていました。その他の地方へは、まずかがり火の祭りとしてこのケルトの祭りは浸透していきます。それが11月5日の「かがり火の夜(Bonfire Night)」あるいは「ガイ・フォークスデイ」であり、11月4日の「Mischief Night」だったのです。イギリス人たちは今でも大かがり火を焚き、花火をあげて一年のこの時を祝う習慣を持っています。それは暗闇の邪悪な霊たちを騒ぎと火で追い払うというケルトの習俗に淵源を持っているのでした。

 その後ハロウィンはケルトの宗教的な意味を薄れさせ、世俗の楽しみとしての意味合いが現れてきます。しかしそこにマスク(仮面)の習俗や超自然的存在に扮するスタイル、そしてその格好で各戸を集団で訪れそこで接待を受けるというケルトの古俗は残存したのでした。

 またこの各戸の訪問というスタイルは、9世紀ヨーロッパの習慣、soulingにも由来するかもしれないと考えられています。これは人々がsoul cakeを求めて各戸を訪れたクリスチャンのお祭りです。それは新しくあの世へ旅立っていった家族親族のために、行きずりの人が亡くなった方の家を訪問し祈ることでケーキに与るもので、日本で言うなら新盆のお宅を通りすがりの人が訪ねお祈りをして接待してもらうという感じですね。誰でもケーキの代わりに亡くなった親族のために祈り、その祈りが魂が天国にいたる旅の助けになると信じられていたのです。

 そして、アイルランド移民やスコットランド移民たちがハロウィンのお楽しみを徐々にアメリカに持ち込み、アイルランドのじゃがいも飢饉(1845-1846)で大量にアイルランドから人々が流入した後は、アメリカ全土でハロウィンが祝われるようになっていったのですが、かがり火や花火、All Saints' Day(万聖節)自体は何故かそれほどアメリカ、そして世界には広まってはいませんね。



万愚節


 四月一日に友人知人をかついだりいたずらしたりするこの「まつり」の日について

 この日の名称として英語ではApril Fools' DayまたはAll Fools Day、これを日本語にうつして「四月馬鹿」または「万愚節」*1ですが、この頃はそのままエイプリルフールと言った方が通りがよいでしょう(メディアで「馬鹿」という言葉が避けられた所為もありそうです)。

 フランスではPoisson d'avril「四月の魚」となっていて、これはPesce d'aprile(イタリア)、Pez de abril(スペイン)というようにラテン系諸国に共通のようです。

 Aprilscherz(ドイツ)、Aprilscherz(オランダ)、Aprilsnar(デンマーク)などは「四月+冗談」、Dia da mentira(ポルトガル)は「嘘の日」。こちらのほうの国々は、日本と同じように「かつぐ日」として結構後からこの「まつり」の風習が入ったようにも思われます。

 そう言えばと今さらながら気付いたのは、April Foolと言うのが「騙された愚者」を指しているということですね。「四月馬鹿」の訳語が付けられた頃はこのニュアンスもあったのでしょうが、今の日本ではエイプリルフールという言葉が「エイプリルフールの日」自体を指していると思いますので微妙に違います。

 フランスのPoisson d'avrilはそういうカモになった人のことも指し、古典的ないたずらとして「背中に魚を括りつける」のが定番だったらしいです。またパティスリーにはこの日、魚の形をしたパイやチョコレートが並んでいるとのこと。

 国によっては(アイルランドとかキプロスなど)エイプリルフールの日のいたずらが「四月一日の午前中まで」とされているそうで、午後になって引っ掛けをする人が今度は
April Fool is dead and gone,
You're a fool to carry it on.
と、子供たちに囃したてられるそうです。

 さてその起源ですが、詳しいことはわかっていないとされるにせよ有力なのは「16世紀フランス説」です。それまでヨーロッパではユリウス暦が使われていたのですが、1564年にシャルル9世がフランスでグレゴリオ暦(新暦)を採用したのがきっかけになった…というのがその大筋のところですね。(教皇グレゴリウス13世が発令した暦でしたから、カトリック国に先に受け入れられたという経緯があります)

 そして、これにはどうもローマ由来のHilariaという祭りが関わっているようです。それは、Cybele-Attis cult(キュベレー*2-アティス*3信仰)やIsis-Osiris cult(イシス*4-オシリス*5信仰)から続くもので、春(といいますか春分の頃。3/25からの8日間)に新たな豊穣を願って祝祭を行なうものでした。これがグレゴリオ暦の導入をきっかけにしてつぶされる(もしくはつぶされると人々が思った)ということがあり、それに対する抗議の意味で始まった「まつり」がPoisson d'avrilだということがよく言われているようです。なにせ自然発生的な風習ですし、いろいろな変遷を経ていますのでその起源に辿りつくのはとても難しいのでしょう。

 私は単純にかつての春分の祭、収穫祈念祭が「乱痴気騒ぎ」的意味(一度秩序を崩して、その再生を図る)で今のように形を変えて残存しているんじゃないかと考えます。

 「反転の儀礼」という術語が示す祝祭の場における遊び、男性の女装や女性の男装、主人が使用人になり最も貧困なものが王に擬される「乱痴気騒ぎ」では、一時的にもステータス、職業、年齢差が無効になり、高きが低められ、周縁が中心に置かれます(このような"奇祭"はヨーロッパのみならず散見されるものです)。そこでは世界(秩序)に無秩序や混乱が導入されることで、その世界自体が再生・新生されることになります。

 そしてまさにこの「逆転」という意味合いが「真実⇒嘘」「嘘⇒真実」の反転の中に見出されるのだと思うわけです。

 日本語版Wikipediaの次のような起源説明については元となる記述が見つけられませんでした。ここまで詳細なエピソードはどこから来たのでしょう?

 その昔、ヨーロッパでは3月25日を新年とし、4月1日まで春の祭りを開催していたが1564年にフランスのシャルル9世が1月1日を新年とする暦を採用した。これに反発した人々が、4月1日を「嘘の新年」とし、馬鹿騒ぎをはじめた。
 しかし、シャルル9世はこの事態に対して非常に憤慨し、町で「嘘の新年」を祝っていた人々を逮捕し、片っ端から処刑してしまう。処刑された人々の中には、まだ13歳だった少女までもが含まれていた。
 フランスの人々は、この事件に非常にショックを受け、フランス王への抗議と、この事件を忘れない為に、その後も毎年4月1日になると盛大に「嘘の新年」を祝うようになっていった。これがエイプリルフールの始まりである。
 そして13歳という若さで処刑された少女への哀悼の意を表して、1564年から13年ごとに「嘘の嘘の新年」を祝い、その日を一日中全く嘘をついてはいけない日とするという風習も生まれた。その後、エイプリルフールは世界中に広まり、ポピュラーとなったが、「嘘の嘘の新年」は次第に人々の記憶から消えていった。

 ラテン系諸国ではなぜ「魚(Poisson)」か、ということにつきましても諸説あります。春分の直前にかけて十二宮の魚座(2月19日~3月20日)だからとか、魚しか食べることのできないレント*6の期間の延長だからとか、春の魚は幼魚で捕まえ(だまし)易いからとか。でもやはりこれはキリストやキリスト教の信仰の象徴として「魚」(ICHTHUS)があるからということではないでしょうか。(俗説ですが、ギリシャ語の「魚」イクトゥス(IXOYC)は、イエス・キリスト・神の子・救い主という言葉を並べた「縦読み」(アクロスティコ/各行、各段落にある最初の文字を読む)で読めるから…というものもあります)


*1:ちょうどAll Hollow's Dayを万聖節と訳すようなものです
*2:ギリシア神話の大地の女神。the Great Mother。穀物の実りと多産を象徴
*3:キュベレー神の息子であり愛人でもある神。生と死、再生を象徴
*4:エジプト神話の女神。オシリス神の妹であり妻。ホルス神の母
*5:エジプト神話の父なる神。生、死、豊穣を象徴
*6:キリスト教の四旬節。復活祭の46日前の水曜日から復活祭の前日までの期間。肉や乳製品を止めるような食事の節制が行われる

* この文章は、かつてブログに書いた内容に加筆修正したものです
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聖とかかわる女性


 飾ったお雛様を早く片付けないと嫁き遅れるとかいうジンクスがあります。この類の伝承を「聖なるものと女性とのかかわり」から考えてみることができます。

 家で神様におそなえ申した供物を、女の子には戴かせるものではないという言い習わしは、今でもまだ弘く地方の隅々に行われているかと思う。その理由を聴いてみると、どこでもこれを食べた娘は縁遠くなるからと、答えるのが普通であった。

 三十年近くもかかってやっと心づいた一つの想像説は、これは神々の祭に奉仕した者が、もとは必ず未婚の女子であり、同時に献供の品々を取得する者が、神を代表したその婦人に限られていたことを意味するのではないか。この二つ約束の、一方はもちろん神聖なる出発点であり、他の一方は言わば自然の結果に過ぎぬのであるが、そういう風に分けて考えることは昔の人にはできなかったので、まず一方の避け得られるものを避けて、それと伴うものを免れようとしたものと察せられる。

 これは柳田國男の「妹の力」の巻序(ちくま文庫版『柳田國男全集11 妹の力』)の引用です。ここで示される仮説は、「未婚女子が神に仕える」という観念が「神に仕えていては未婚のまま」というように逆転し、さらに神に奉仕するものがお供えをいただくということから「お供えをいただくと縁遠くなる」というジンクスに至ったのではないかと考えるものです。
 つまりひな祭りで「雛飾りをそのままにしておく」ことが、娘を「ずっと神に仕えさせる」ことつながり、ひいてはそれが「嫁き遅れ」に結びついてしまうという発想です。「恵比寿様にお供えした供物を戴くと嫁き遅れる」など類似のジンクスもこの柳田説は説明しています。

 女性が神に仕えるということ

 日本で女性祭祀者といってまずイメージされるのは、おそらく耶馬台国の卑弥呼ではないかと思います。

 卑彌呼、事鬼道、能惑衆 (卑弥呼、鬼道につかへ、能く衆を惑はす)
 これは『魏志倭人伝』の一節ですが、それによると卑弥呼は夫を持たなかったことになっています。伊勢神宮に皇室から送られる斎宮(いつきのみや)もまた未婚であることが必要であったように、神に仕える巫女は「神の妻」と考えられるがゆえに独身でなければならなかったと推測することができるのではないでしょうか。

 さらに『魏志倭人伝』では「男弟あり、佐(たす)けて国を治む」とあるように、異性のきょうだいが共同で国を治めていたとされます。実はこの形、男きょうだいが政事、女きょうだいが祭事(神事)を執り行なうというものは、古代日本で存在した政教一致の統治形態(の一つ)だったのではないかと考えられているのです。たとえばそれは、古代琉球における王と、そのオナリ神(きょうだい神)であるキコエ大君との関係にも見られることはよく知られていることです。

…しかし何も古代琉球とかぎらず、次のもろもろの例からして、これは古い日本でひろくおこなわれていた政教一致の普通の型であったと考えられる。まず想起されるのは、有名な賀茂伝説である。玉依姫は川上から流れてきた丹塗矢に感じて神の子を産むのだが、彼女には玉依彦という兄があり、しかもそれが一対としてあつかわれている(山城風土記逸文)。常陸風土記の伝える錙時臥(クレフシ)山伝説も同型で、兄と妹があり、その妹が神の子なる小さな蛇を産んだ、云々という話であり、紛れもなく卑弥呼と男弟の関係と同じである。記紀にそくした例でいうならば、(略)アメノウズメと猿田彦との間柄がそうで、ウズメはまさに「鬼道」につかえた原始の巫女の面影をなおとどめているといえるはずである。采女についても同様であったことは、およそ采女は、郡少領以上の姉妹および子女の顔よき者を貢す、という規定に照らしあきらかである。もとより、子女ではなく姉妹を貢するのが古態であった。
(西郷信綱『古事記の世界』岩波書店、1967 より)
 柳田が「妹の力」で指摘するものは、まさにこのヒメ・ヒコの関係でありまして、そこで捉えられた「未婚の女性が神に仕える」という在り方は、嫁き遅れのジンクスとともに実はいまなおひっそりと日本文化の記憶として私たちの中に残っているのではないでしょうか。

参考:「沖縄の宗教」
 …沖縄に関する歴史上の記録は八世紀にさかのぼるが、九世紀ごろから十三世紀までの間は、沖縄島を中心に、農業生産を基礎とする共同体の連合が成立し、按司とよばれる首長たちの支配が続いた。
 按司が率いる小国家では、ニイチュ(根人)とよばれる生え抜きの支配層が、共同体の祭祀を主宰した。祭司は、ニイチュの姉妹または妻で、ニイガン(根神)とよばれ、神意を伝えることで政治支配を支える役割を果たした。按司の家のニイガンは、ノロ(祝女)、先島ではツカサ(司)とよばれ、いくつもの共同体の祭祀をつかさどって、ゆたかな収穫を保障し、戦闘を勝利に導く神役として尊ばれた。さらに広く女性は、神に仕える存在としてオナリ神とよばれて崇められた。オナリとは兄弟の意味である。按司時代末期の十三世紀後半には、仏教が伝来した。
 十四世紀初頭、沖縄島では、中山、南山、北山の三国家が分立し、それぞれ周辺の諸島を支配して抗争をくりかえした。十四世紀後半、中国(明)は三山の各王を冊封し、沖縄では中国への留学生の派遣、南福建の中国人の渡来などによって中国との交流が活発化した。十四世紀末には、中国からの渡来人によって、儒教、道教がもたらされ、とくに道教は、沖縄の宗教に大きな影響を及ぼした。華南の影響をうけて、丘の中腹に穴を掘り、亀甲墓、破風墓など大きな墓郭を設ける風が広まり、祖先崇拝が発達した。
 一四二九年(永亨元)尚巴志が三山を滅ぼして全土を統一し、王都首里を建設した。尚王朝の琉球王国は、十五世紀なかばから十六世紀に全盛期を迎え、広く南海の各国と交易して繁栄し、琉球文化が発展した。琉球王国では、中央集権的専制支配の体制を整え、最高祭司として聞得大君を置いた。聞得大君には、王の姉妹、王女、のちには王妃が任じられ、とくに「黄金竜花大かんざし」を挿すことを許された。
 聞得大君は、儀保、首里、真壁の三地域の各祭司を統率し、全土のノロ(キミ)を支配した。この国教制度は、宮古、八重山、奄美等の周辺諸島にも及ぼされた。
(村上重良『日本宗教事典』講談社、1993)

 女性は真の実力を怖れられていた

 「未婚の女性が神に仕える」ということについてですが、これはやはり聖婚(ヒエロス・ガモス Hieros Gamos; もしくはヒエロガミー)に通じると考えた方がよさそうです。つまり神的存在の配偶者という位置づけ(ここでは神の妻)がなされ、それにより宗教的権威が与えられるというものです。

(なおこの逆のパターンの聖婚的儀礼として、新たに即位した天皇が大嘗祭の時に正殿において神(天照大神)と初穂を共食し、御衾の中で共寝するという「御衾秘儀」が後代に成立しております。こちらの方が古代ギリシアにおけるヒエロス・ガモス、王が統治権を得るために不可欠の聖なる婚姻と類似の形態と言えるでしょう)

 古代日本では、女性には神と通じ特別な力が付与される能力があるものと考えられていたのです。

 …村家の娘を訪れる新嘗の夜の情人を仮想した二首の東歌などもある。成女戒を受けた村女の、祭の夜に神を待つた習俗の民謡化したものだ。此夜の客が、神であつて、所謂一夜夫なるものであつた。歌垣・かがひ・新室のホカヒの唱和は、民間の歌謡の発達の常なる動力であった。元は、男方は神として仮装し来り、女方は精霊の代表たる巫女の資格において、これに対抗し、これを迎へ、これに従うたのである。此が相聞歌の起りである事は述べた。
(折口信夫『折口信夫全集 第一巻 古代研究(國文学篇)』、中央公論社、1990)
 そしてこの巫女としての女性の在り方は、長く宮中に残ったと折口は考えます。少なくとも日本においては、後宮という存在は単なるハーレムではなく神事につながる宗教性を備えていたらしいのです。
 中天皇・斎宮其他、后妃から女官に到るまですべて、巫女として宮廷の神及び神なる君に仕へてゐた。氏長・國造の家々にも亦、かうした巫女が充ちてゐた。此等の外にも、國々邑々の成女は、すべて巫女たる事が、唯一の資格であつた。だから、宮廷に出入した女性たちの生活を、女房・女官などの後世風の考へ方で、単純に見てはならぬ。後宮の職員は、平安初期までも、巫女としての自覚は失はなかったのだ。
(折口信夫 前掲書)
 また、神と通じるための「処女性」は必ずしも実際の未通娘であることを要請しません。こういうところは古代日本の大らかさというか融通の効く一面でしょう。
 …日本にも処女は三種類ありまして(中略)つまり、全然、男を知らない処女と、過去に男を持つたけれども、現在は処女の生活をして居るものと、それからもう一つは、ある時期だけ処女の生活を保つて居るものと、此三種類であります。
 一体、神に仕へる女といふのは、皆「神の嫁」になります。「神の嫁」といふ形で、神に会うて、神のお告げを聞き出すのであります。だから、神の妻になる資格がなければならない。即、処女でなければならない。人妻であつてはならない。そこで第三の類の処女と言ふものが出来てくる。人妻であつても、或時期だけ処女の生活をする。さういふ処女の生活が、吾々の祖先の頭には、深く這入つて居たのであります。
(折口信夫 前掲書)
 ここに至りますと、すでに女性すべてが巫女としての可能性を持つとされていたと考えてよいでしょう。柳田はこれについて「…最初この任務が、特に婦人に適すと考えられた理由は、その感動しやすい習性が、事件あるごとに群集の中において、いち早く異常心理の作用を示し、不思議を語り得た点にあるのであろう(妹の力)」と語っておりますが、こういう近現代の知識を以ってする推測はむしろ蛇足であって、ちょうどカトリックにおける聖職者が男性のみと考えられていたことの裏返しのような、日本古代における一つの宗教的信念の姿を思い描くだけでよいと私は考えます。

 このことの傍証として、男性が旅行に出る際の女性による呪術的加護の習俗があります。

 家々の成女戒を経た女たちは、巫女である。其故、呪術を行ふ力を持つてゐた。愛人や、夫の遠行には、家族の守護霊でもあり、自身の内在でもあるものを分割して与へる。男の衣装の中に、秘密の結び方のたまの緒で結び籠めて置く。さうして、旅中の守りとした。
(折口信夫 前掲書)
 これは伊波普猷が「をなり神の島」(柳田國男編集『民族』二巻二号、1938、所収)で、沖縄諸島には最近まで姉妹に兄弟の身を守護する霊力があるという信仰から、旅立ちに際して同胞女性の髪の毛もしくは手巾などの持ち馴れた物品を乞い受けて持っていく風習が残っていた、と記したものと同様のものと考えられます。

 結局男尊女卑の思想、そして儒教や仏教などが伝来する以前の日本では、女性こそが宗教儀礼において中心とされていたのではないか、ということがここで考えられているのです。

 自分たちの学問で今までに知られていることは、祭祀・祈祷の宗教上の行為は、もと肝要なる部分がことごとく婦人の管轄であった。巫はこの民族にあっては原則として女性であった。後代は家筋によりまた神の指定に随って、彼等の一小部分のみが神役に従事し、その他は皆凡庸をもって目せられたが、以前は家々の婦女は必ず神に仕え、ただその中の最もさかしき者が、最も優れたる巫女であったものらしい。
(柳田國男「妹の力」より)
 それではその後の日本の宗教においてなぜ男尊女卑的傾向になってしまったのかですが、もちろん外来の思想・宗教の影響ということもありますが、柳田は次のように考えます。
 女の力を忌み怖れたのも、本来はまったく女の力を信じた結果であって、あらゆる神聖なる物を平日の生活から別置するのと同じ意味で、実は本来は敬して遠ざけていたもののようである。
(柳田國男 前掲書)
 つまりは男が女を怖れるという表現形式が、いつしか女を蔑視する表現に変わっていってしまったのではないかという推測です。このようなことを考えますと、女人禁制の山の聖域とか、女性が禁忌とされる相撲の土俵などの件に関しましても、本当の本当は男性が女性の力を畏れていたがゆえの宗教的表現と考えることができるのではないでしょうか?
 きたないとか穢れるとかいう語で言い現わしていたけれども、つまりは女には目に見えぬ精霊の力があって、砥石を跨ぐと砥石が割れ、釣り竿・天秤棒をまたぐとそれが折れるというように、男子の膂力と勇猛とをもってなし遂げたものを、たやすく破壊し得る力があるもののごとく、固く信じていた名残に他ならぬ。
(柳田國男 前掲書)

 男女による政教一致の「まつりごと」

 神事を司る女性と政事を司る男性の組み合わせというものは意外に多くその例を見ることができるものです。
 しかしながらそれが実の「きょうだい」によって為されているという実際の事例をいくつも挙げることはできません。それはむしろ神話的なエピソードに多く、はるかな過去にうっすらその事実が透けているのを認めるといったほうがよいかもしれません。

 兄妹の宗教上の提携の、いかに自然のものであったか…近くはアイヌの昔物語においても…処々の島山に占拠した神は、必ず兄と妹の一組にきまっていた。沖縄は…これまた御獄の神々は男女の二柱であって、その名の対偶より判じてみても、わが神代巻の最初の双神とともに、本来同胞の御神であったことが想像せられる。…その上に重要なる祈願においては、もとはしばしば「をなり神」を拝する習いがあった。すなわち妹の神女を仲に立てて神の霊に面することであって、ヲナリは島々においては現にまた我々のいう姉妹を意味している。同じ語とおぼしきものが内地で用いられるのは、ただ田植えの折の田の神の祭のみであるが、その任務のきわめて神聖に、かつ家々の生活にとって最も重要であったことは、歌曲と口碑の中からもこれを窺うことができる。
(柳田國男 前掲書)

 巫女と長がきょうだいであった場合、巫女と長は婚姻しないわけですからその後継者は二人の実子ではあり得ません。そして巫女が女系で続くとすると、次の世代から見た長は伯父になります。つまり母方の伯父が「長」にあたるわけです。母方の伯父というキーワードは、私たちにレヴィ=ストロースが南島の文化に研究した人類学的成果を想起させます(たとえばラドクリフ・ブラウンの家族論に疑義を呈した『母方の伯父の命題』など)。
 また先島諸島に伝えられる「兄妹始祖創世神話」は、インドネシアから東南アジアにかけて様々なバリエーションで残っているものです。(参考:波照間島の兄妹始祖創世神話。この神話の、古事記の「国生み」との類似にも留意してください)

 巫女に夫がないのは、かの女は神の妻として、いわゆる「鬼道」につかえていたからである。また卑弥呼が死んで「宗女壱与」があとを継いだとあるのは、女系相続の古い姿をつたえるものである。母から娘へとうけ継がれるのが女系相続の本来であるかのごとく常識では考えられがちだが、しかしそれはまちがいで、兄弟の姉妹から、兄弟の娘へ、つまり姉妹を当人とすればその姪へとうけ継がれるのが女系相続の本来であり、この姪にあたるのが右にいう「宗女」であったと思う。地方豪族から宮廷に貢される采女の職がやはり姪へと譲られる習いになっていたのにも、おろそかならぬ由来があることになる(44)。これは女の神秘な霊力を保存し、もち伝えるための古い方式であったわけで、猿女の霊力の背後にも、当然かかる同族的生活組織があったはずである。
 原注44 …なお、賀茂伝説とクレフシ山伝説において伯父ということばがつかわれているのを見のがせない。女系的家族では、子から見た場合、伯父こそが家長であったからだ。
(西郷信綱『古事記の世界』、岩波書店、1967)
 私の手にあまるような比較神話論などはここでいたしませんが、「兄妹」を家族-部族(-国)の構成の基本要素とする文化・宗教伝統が南方にあり、それが海の道を経て古日本に伝わっていたと考えるのはかなり自然な推察であって、柳田や折口の念頭にもそれがあったことは確かなことでしょう。その基盤の上での「妹の力」なのです。

 さて話をきょうだいの「まつりごと」に戻しますが、柳田國男はその関係を推し量って「兄の生活計画に、妹が力強い指導の力であった」とか「妹を精神界の案内者とする」、「すなわち姉妹神としてわが兄弟のために、神威を仲介する」などと記述しています。
 残念ながらこれらの言葉はみな想像に過ぎないとも言えます。ただ確実なのは、女性が祭祀者として中心にいたであろうことと、その巫女としての女性の親族が集団を率いるというシステムに対し、人々が有効性を認めていただろうということなのです。

 …先に申しました通り、或國、或は或村の家の歴史なり、叙事詩なりに残されてゐる其國・其村の頭の家の処女の場合は、皆、吾々の考へる普通の処女の様なものではなく、大抵、皆、神に仕へて居る処女、即、巫女である。そして、其処女が神に仕へる力を利用して、其処女の兄なり、親なりが、國を治め、村を治めて居る。此が國を治める原則である。処女が神に仕へて、其兄なり、父なり、叔父なりが、神から引き出した知識を以て、此國を治めて居るといふのが、日本の昔の政治の一般的な遣り方であります。其でなければ、又、國々・邑々の者が承知をしないのであります。
(折口信夫『折口信夫全集 第一巻 古代研究(國文学篇)』中央公論社、1990)
 同じ男女の組み合わせの「まつりごと」にしてもヒメ・ヒコのきょうだいによる形から父・娘、あるいは夫・妻の組み合わせへと変わっていった背景には、たとえば集団の規模が大きくなったためとか宗教に対する政事の優位が図られたとか様々な要因がそこに考えられます。神話がそのまま生きられた時代を離れ、社会が世俗化していったことの証左と見ることもできるでしょう。
…彦姫による政治的・宗教的二重統治が日本固有の古い形式であったことを、ほとんど疑うわけにはいかない。かかる伝統形式にたいし、天皇と斎宮との関係は、もはや兄と妹ではなく、父と娘との関係におきかえられているのに注目しなければならぬ。これは父権のいっそう強化された姿である。いいかえれば、女の霊能のにない手を自己の姉妹から娘に移し、さらにそれを政治の中心から離れた伊勢の地に配置することによって、天皇の政治力の相対的独立性は強められ、王権のあらたな展開がここに可能となる。(中略)斎宮制は女を神秘な霊の世界にとじこめたのであり、かくして政治と宗教との原始的な膠着状態が破られていく。
(西郷信綱『古事記の世界』岩波書店、1967)

 いずれにせよ古代日本において「女性が祭祀の中心」であったことを示す資料が少なからずあるところから見て、その後に形成された天皇制の伝統などにより「女性」の扱いが(より低い方向へ)変容してしまったのはほぼ確実だと私は考えます。ですから「伝統」の言葉を以って男尊女卑的傾向を懐古することは、単純に間違いであろうということを一つの結論として挙げたいと思います。

 柳田は「妹の力」でヲナリ神信仰の類の衰えについて触れ、兄が妹の言葉に背いて罰を受けるという口碑をいくつか紹介しています。私はそこに、直接ではありませんが何かその失われた過去を惜しむような響きを受け取っています。ある意味彼は「妹の力」に真に萌えていた魁の人だったのかもしれません…

 我々が今読んでいる歴史というものの舞台には、女性の出て働く数は甚だしく少なかったが、表面に現れた政治や戦争の事業にも、隠れて参加した力は実は大きいのであった。そういう心持をもって再び前代の家庭生活を眺めてみると、久しく埋もれていただけに、なつかしい民族心理の痕が際限もなく人の心を引く。
 新しい時代の家庭においては、妹の兄から受ける待遇がまるで一変したように見えるけれども…もし彼女たちが出でて働こうとする男子に、しばしば欠けている精緻なる感受性をもって、最も周到に生存の理法を省察し、さらに家門と肉親の愛情によって、親切な助言を与えようとするならば、惑いは去り勇気は新たに生じて、その幸福はただに個々の小さい家庭を恵むに止まらぬであろう。それにはまず女性自身の、数千年来の地位を学び知る必要がある…
(柳田國男 前掲書)


* この文章は、かつてブログに書いた内容に加筆修正したものです
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仏陀とスージャーターとカルピス


 釈尊、ゴータマが菩提樹下で悟りを開いたという話はよく知られていると思います。また、苦行を続けても悟りは得られないと山を下りてきた彼に飲み物を供養した(差し上げた)娘の名がスージャーターだったということも、わりに知られているのでは?
 出家したゴータマ・シッダールタはアーラーラ・カーラーマとウッダカ・ラーマプッタに修行の基本を学んだ。それから六年にわたって断食などの苦行を続けたが、苦行が真理を得る方法でないことを知ったゴータマは断食を止めて山を降り、ナイランジャナー(尼連禅河)で沐浴してそこの村の長者の娘スージャーターから乳粥を供養された。その後河を渡ってブッダガヤの菩提樹の下に草を敷いて座を作り、その上で禅定を始めた。七日後の未明、彼は悟りを開く。

 娘の名はスージャーター(もしくはスジャーター。最後の「タ」は長音で伸ばさないと女性の名前になりません)ですが。さて院生の時、ここでスージャーターがゴータマに渡した飲み物がサルピスで、カルピスはそれにヒントを得て作ったもの」という話を、仏教学の先生(かつ真言宗豊山派の僧侶)からお聞きしました

いずれ続きを書きます (工事中・ごめんなさい)

* この文章は、かつてブログに書いた内容に加筆修正したものです
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